働く母のすすめ

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集団の傾向と個体差

息子の学校では、運動会や文化祭、修学旅行などの学校行事のプログラムやしおりに掲載する表紙や挿絵を児童が描くことになっている。毎回、宿題として絵を描くための紙が配布され、提出されたものの中から、児童や先生が選んでいるようだ。大抵は、表紙用と挿絵用で合計2-3枚が選ばれることが多いのだけれど、修学旅行のしおりはページ数の多さもあってか、20枚近い絵が掲載されていたので、興味深く観察した。
小学校高学年くらいになってもまだ、描いた児童の性別が分かりやすい絵が多いと思った。女児の絵の多くは、"人+修学旅行先のランドマークや名産"が描かれていて、どちらかというと"人"に焦点が当てられている。例えば、友人同士が楽しそうにで歩いている背景に物が描かれているという構図。ランドマークや名産は、必ずしも詳細に描き込まれている訳ではないけれど、上手く特徴抽出がなされていてパッと見てそれが何かが分かるように描かれている。男児の場合は、紙いっぱいにどーん!とランドマークや名産が描かれていて、どれも現実に忠実に詳細が書き込まれたものが多い。人を描く児童の割合も少ないし、描かれていたとしても人もランドマークも名産も絵の中での意味や重み付けは変わらない場合が多い。どちらが上手いとか下手とかではなく、興味の対象や課題の意味の受け取り方など、何が違うのだろうか?などと考えるのはおもしろい。

この印象は、息子が保育園の年少の頃、教室の掲示物として初めて子どもたちの絵を見るようになってからほぼ変わっていない。年少の頃から、女児の絵には"人"が中心のものが多かった。特に遠足や運動会などの思い出を自由画として描いた場合に顕著となるように思う。女児は、仲のよいお友だちや保育士さんなど、複数の"人"が紙の大部分を占め、その行事での自分と人との関わりや思いを絵にする一方で、男児は自分が見たことそのものを描こうとする。人が描かれることもあるけれど、例えばそれは"かけっこをしている人を見た"という事実を描いているように見える。乱暴な言い方をすれば、女児は自分がどう感じたかという主観がメインで、男児は自分が何を見たかという客観がメインになっているともいえるかもしれない。

もちろん、個体差はある。上述したようなパターンに当てはまる絵を描く児童が多数派というだけで、そうでない絵を描く児童がゼロだというわけではない。「うちの子はそうではない」とか「何人かそうでない子はいる」とかいう個体差と男女差は両立して存在し得る。

 


絵に限らず、どんなことでも性別などの集団で分けて傾向を議論すると「そうでない人もいる」「個体差の方が大きい」などという意見が出ることがあるけれど、それはナンセンスだと思う。集団の性質は、そもそも個体のばらつきを含んだ上で「そういう傾向の人が多い」ことを示しているだけなので、個体差の存在を否定するものではない。もちろん、とある個人が、その所属する集団の傾向と異なる性質を持っていたとしても、その人がその集団に属することを否定するものでもないし、その人の性質そのものも否定するものでもない。

例えば、子育て、人材育成などにおいては、集団での傾向も個体差も把握した上で、自分の立ち位置や状況に応じて、どちらに焦点を当てた行動をとるべきかを都度考えて選択するというのが最適解なのではないかと思う。