働く母のすすめ

You are stronger than you think.

普通という幻想

子どもの頃から「普通」が苦手だった。自分では努力しているつもりだったのだけれど「普通」には入れずに、疎外感が強い子ども時代を送った。途中から「だったら、あえて普通じゃない方を選ぼう」と開き直ってからは、一人でいることが楽しくなった。そうして過ごしているうちに、いつしか「普通」という概念も気にならなくなった。

あの頃苦手だった「普通」とはなんだったのだろう。数値で評価できるのであれば、平均値±2SDくらいの値を持つ人のことだろうか?だったら普通を決める指標ってなんだろうか。
身体的な指標であれば、身長、体重、座高、胸囲、腹囲、頭囲、足のサイズ。
もう少し医学的な指標も入れれば、赤血球や白血球の数といった検査項目などもあるだろう。
社会的な指標であれば、教育年数、年収、結婚の回数や子どもの数、それから友だちの数。
(既に上記にも含まれているけれども)連続数で表せないものも含めれば、もっともっと挙げられそうに思う。
時には、コンプレックスを刺激し得るこうした値が、全て平均値±2SDの人がいたとしたら、もうそれは普通of普通ということになるのかもしれないけれど、そんな人って本当にいるだろうか。ちなみに私は、身長が平均値±2SDの外側にあるし、レディースの既製品サイズの靴は入らないので、もうこの時点で結構普通からはみ出している。友だちの数も多分、外れ値だろうと思う。

無意識に自分はmajorityだと信じて疑わない人も、自分はminorityだと悲観している人も、個々の指標を取り上げて自分がどちら側にいるのかを調べてみたら、ある指標ではmajorityだけれど、別の指標ではminorityだということになるだろう。けれど、ダイバーシティを語るとき、全ての人はmajorityでもminorityでもなく、それぞれが多次元の評価系の中で、明確に別々の点として分布しているという認識が必要だと思っている。特定の誰かだけではなく、全ての人がダイバーシティの当事者なのだと思う。

普通であることに安堵する気持ちも辛く思う気持ちも、普通でないことを嘆く気持ちも優越感を感じる気持ちも、結局は自分が作り出した普通という幻想の中での一人相撲なのではないか。そう思いながら今日も平穏に生きている。