働く母のすすめ

You are stronger than you think.

お茶を淹れる。その3。

前述のように現状に対する違和感を列挙すると、どうも愚痴っぽい雰囲気になってしまうのが好きではないのだけれど、だからといって、日本人的and/or女性的美徳意識から声をあげずに我慢するというのは、決して最善策ではないと思っている。それゆえ、私自身は、あちこちで愚痴愚痴と現状に対する違和感を列挙しているわけだけれど、祖母たちの世代は、今よりもさらに美徳意識が是とされていて、愚痴愚痴と現状に対する違和感を列挙したり、それを共有して次のアクションに繋げたりする機会も場所もなかったのではないかと想像している。そうした美徳意識は、自分が感じた違和感を自らの手で自分の内部に押し込めてしまうし、外部からは他人の美徳意識に乗じて自分の意思を通そうとする人が、その違和感を存在しないものにしようと働きかけてくる。夫にもママ友にも伝わらなかった違和感は、そうやって社会によって狡猾に内部に閉じ込められたまま、時には自覚的に、時には無自覚に受け継がれてきたのだと思う。

 

母親や妻などの他人が、自分の知らないうちにやっておいてくれるから、supportiveな仕事の存在を認識出来ないのかもしれない。忙しいを言い訳に、めんどくさい仕事は見ないようにしているのかもしれない。自分はトクベツだから、そうした仕事はしなくてよいと勘違いしているのかもしれない。けれど、例えそれがどんな簡単なことや細微なことであったとしても、仕事上、自分以外の誰かに時間と労力を使って何かをしてもらったら、対価が支払われることは当然で「女性らしさ」などの曖昧な定義の言葉で、その評価をうやむやにしてはいけない。お茶を淹れること自体が問題なのではなく、お茶を淹れることが必要なのであれば、それが評価されないことに問題があり、必要でない/評価しないのであれば、そのために誰かにそうした仕事をさせていることに問題がある。

 

"対価"と書いたけれど、それは必ずしも金銭的なものでなくてもよいと思う。

 

最近、私が頻繁に通っている歯科医院の先生は色々と興味深い人で、私はいつも治療中に先生の観察を楽しんでいる。その先生は、その歯科医院の経営者、すなわちスタッフの雇用主なのだけど、自分以外の誰かに何かを頼む時には、どんな些細なことであっても毎回きちんと感謝の意を伝える。「○さん、〜を持ってきてくれる?」とスタッフに指示を出した後、そのスタッフが指示に対して動作を始めた時点で、一度「ありがとね。」と言う。そして、スタッフが指示を完了した時点で、もう一度「ありがとう!」と言う。歯科医院では、通常、複数台の診療用の椅子(ユニット)を置いて、複数の患者さんを並列に治療しているので、必然的に指示の数も多くなる。私は毎回、自分の治療中に、数え切れないほどの「ありがとう」が頭上に飛び交うのを聞いている。

 

小学生の頃、担任の先生が「実るほど頭を垂れる稲穂」の話を繰り返し熱弁していて、当時の私には全くピンと来なかったけれど(むしろ、「先生、頭垂れないじゃん?」くらいに思ってた)、果たして、自分は、どれくらい周りの方々に敬意と感謝の意を伝えられているだろう?と改めて思った。そして社会が、もっと他人への感謝で溢れるとよいなと思っている。