働く母のすすめ

You are stronger than you think.

思えば遠く来たもんだ

小学生の頃、大人(主に学校の先生)は、言い分に一貫性がなく、信用出来ない人だと思っていた。その時その時の都合に合わせてロジックを変えて、児童を叱る。私の生まれ育った地域は、いわゆる"荒れた"地域だったのだけど、先生は大人なのに、どうしてもっと上手く介入出来ないのだろうと思っていた。大人はかつて子どもであったはずなのに、どうして子どもの気持ちが分からないのだろう?私は、絶対に子どもの気持ちを忘れない大人になろうと思っていた。そう思っていたのだけれど、自分が子どもの頃、学校に対して感じていた理不尽さや、その根底にあった思いを、今の私は、正確には思い出せずにいる。

小さな田舎町の外のことは何も知らない子どもだった私には、ただ考えることしか出来なかった。1人の教師として子どもたちにより深く接することができる立場と、文部省(当時)などの官僚として、ルールやシステムそのものを変えられる立場とでは、どちらが学校をよりよくできるのだろうか?教育現場に限らず、対個人という視点から問題に向き合う職業と、よりマクロな視点から問題に介入する職業。自分はどちらの立場になりたいのだろうか?こうした問いについては、今でも時々、考えることがある。

 

ここ何年かで、ある意味マクロな視点から問題に意見する機会が得られるようになってきた。私は、まだそうした会議の末席を汚しているだけで、ルールやシステムに影響を与えられるほどの力はない。今は後学のため、戦略のため、末席からこうした集まりに参加している"尊敬すべき御仁"たちとはどういう人たちなのか、その言動をじっと観察しているのだけれど、社会をよりよくしたいという動機で、ルールやシステムを改善していこうと動いている"御仁"は、私が子どもの頃に期待していたよりもずっと少ないと感じている。けれど大人になった私は、そうした動機を持っている人が少ないことを既に知っていて、そのことにそれほど驚いてはいない。このままでは、日本の科学技術力は衰退してしまうと、それらしいロジックを並べて改善案を提示する"御仁"の自分の言葉の端々から、名誉欲や権力誇示が溢れだす光景を、嫌というほど見てきたからだ。とてつもない閉塞感。

 

 

日曜日の朝に、息子と見るヒーローたちは、自分の中の正義に正直過ぎて泣きそうになる。純粋に正義だけを信じていられる世界は、理想であり虚構なのだけれど、かつてそれを信じていた子どもだった自分がいて、それが現実であるか虚構であるかは重要ではなくて、信じている限り、そこに正義があるというのが、この冬の映画のテーマだったわけなのだけど、このタイミングでそんなことを言われてしまったら、年甲斐もなく青さを炸裂させてしまいそうになるわけで。

 

多分、少し疲れている。

 

(ということを1年の最後に書いてしまうのもどうなんだ。と客観的に突っ込めるほどには元気です)