働く母のすすめ

You are stronger than you think.

お茶を淹れる。その2。

高校で理系を選択して以来、男性が多数派な世界で生きてきた。私自身は、見た目、興味、考え方など、一般的に"女性らしさ"として挙げられそうなものは、あまり持ちあわわせていないのだけれど、生物学的なカテゴリーは女性なので、女性が少数派な世界で生きていると 、必然的に"女性的な仕事"を依頼されることが多くなる。職場で共用の飲食物を買い出しに行く時には「女性の方が、そういうの詳しいでしょ。」と言われ、会議や式典などの受付を決める時には「女性の方が花があるから」と言われ、お偉い方との食事会があれば「女性が隣りにいた方が喜ばれるから」と言われる。特段難しい仕事ではない。こうした仕事を引き受けることに利点を見出すこともできるけれど、釈然としないのは「女性」を理由にしていること、それから、私がそういう役割を遂行している間、私に仕事を頼んだ相手の「男性」は自分の仕事に専念したり、自分の意思で自分の時間を使っているということだ。

 

職場に来客があり、会議をすることになっていた時の話。

その日は、お客様にお茶をお出しすることを業務の1つにされている方が不在だったので、同僚とお茶をどうしようかという話になった。私の職場は、経理上も設備上も制度上もフレキシブルではないので、お茶を出すならば、自分たちで淹れる以外の選択肢はない。上司も不在だったので、会議はお客様と同僚男性2人と私の合計4人が出席することになっていた。その会議で話し合われる内容の主担当、つまり会議でプレゼンするのは私。職位は3人とも同じで、年齢でいうならば、私は3人中真ん中、在職歴でいうならば、1番古株だった。この状況において、年上の同僚男性が、私がお茶を淹れたらいいんじゃないかと言った。年下の同僚男性は、こういう時には意見しないタイプ。短時間で個々の思想に深く根ざしている問題に対して、お互いに納得できる妥協点を見いだすのは困難と判断し、私はプレゼン準備でドタバタの中、お茶を淹れることにした。何よりホスピタリティーの観点から、お茶のことで揉めたくはなかった。

この話には後日談2つがある。
1つ目は夫にこの話をしたら、私の違和感が全く伝わらなかったという話。これはなかなかショックだった。夫は、私が仕事をすることや家事育児を分担することに対して、理解がある方だと思っていたからだ。夫は「お茶を淹れることが得意な人は大抵女性なので、女性が淹れたらよい」という主旨の話をした。「得意」「不得意」という言葉は、お茶を淹れる練習をしてから使ってほしいと思う。
もう一つは、家族ぐるみで付き合いのあるママ友に、夫がこの話をしたところ(なぜ夫がその人に話したのかという違和感は置いておく)、そのママ友にも私の違和感が伝わらなかったという話。逆に、ママ友は「え?お茶を淹れるのは女性の仕事でしょう?」と不思議そうに言った。いつもそうした仕事は、当然のこととして引き受けていたそうだ。その後、そのママ友は、仕事と子育てとの両立のため、自宅から近い事業所への異動希望を会社に提出したのだけれど、受け入れてもらえずに、退職することになった。彼女から事情を聞いた限りでは、それは"女性だから"と頼まれていた仕事を、自分の仕事として引き受けていたことと無縁ではないと思っている。"女性だから"を理由に頼まれた仕事は、引き受ければ"いい人"と評価されることはあっても、会社の利益に直接繋がる業務としては評価されにくい。同じくらいの成果を出した人の中で、"いい人"がいれば、その人が相対的に高評価になることはあるかもしれない。けれど、上述したように、往々にして、"女性だから"と言って仕事を他人にふった人は、その間に自分は評価に繋がる業務を遂行していているのだ。

 

誰にも悪気がないことがほとんどなのかもしれない。けれど、無自覚な方がタチが悪いとも考えられる。家ではアタリマエに家事育児を多めに担当し、仕事ではアタリマエに"女性だから"と仕事をふられるならば、女性は他人よりも何倍も努力しなければ、評価されないことになる。

 

じわじわと真綿を積まれていく感覚。ひとつひとつはとても軽いものなのだけれど、毎日コツコツと積み上げられれば、真綿であっても重くて身動きが取れなくなる。私が女性であることで、日々感じている不利益はそういうイメージだ。

 

続く(かなあ…?)