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働く母のすすめ

You are stronger than you think.

自分という”存在”に必要以上の幻想を抱かずに生きる。という話

ハタチを少し過ぎた頃。私は、1人暮らしのアパートで、床に寝転びごろごろと体勢を変えながら、夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでいた。「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす」という触れ込みに惹かれ、自分がいつどの場面で「精神に異常を来たす」のかワクワクしながら読んでいたのだけれど。精神に異常を来たすどころか、途中(どの場面かは忘れた)で「ああ。結局のところ、私が今見聞きしていることだけではなく、自分の内部に存在していると思っている感情や意識も全て、元素記号で表記され得る分子群の働きに過ぎないのだな。」という考えがストンと腹に落ちて、それまでモヤモヤとしていた人間関係や自分自身に関する悩みが、パッと霧が晴れたように消えてなくなり爽快な気分になった。

元素記号で表記され得る分子群の働きに過ぎない」とはいっても、それらを取るに足らない瑣末なことであると捉えたわけでは決してなくて。むしろ、同時に、そのものすごく複雑でreasonableなシステム、すなわち科学の世界の道理を美しいと思い、それ以来、生物を構成する物質だけでなく、この世を形成する全ての物質のふるまいの美しさに感動する気持ちは、加速する一方だったりする。

自分の感情や意識に必要以上の重みづけをするという行為は、結果として自分自身を苦しめるのではないかと思う。

表題にある、自分という”存在”に必要以上の幻想を抱かずに生きるということは、自分自身を構成するシステムを知り、そのシステムとしてのアウトプットである自分自身の感情や意識を、客観的に見つめる理解するということで。そうすることで、現在のアウトプットが自分にとって心地よいものであれ、負の感情を生むものであれ、そうなるのがシステムとして自然であるのだと、自分自身を許容しやすくなると思う。


科学と哲学、そして宗教は紙一重なところがあって、突き詰めていくと、表現が宗教っぽくなっていくので、この話はこの辺にして。ブログのメイントピックの1つである(と私が決めている)子育てとの関連に話を移す。

私たちを構成するタンパク質をコードしている遺伝子も元素記号で表記される分子から成っていて、現在のところ、自分の希望通りに遺伝子の配列を組み換えて自分の構成要素をカスタマイズすることは、少なくとも倫理上は不可能だと思う。構成要素を意図的に変えることは出来ないけれど、そのfunctionは、自分を取り巻く環境をはじめとした外的な要因によって、幾らかは変化させることが出来る。

そういう考えに則ると。例えば、子どもに何かを習得してほしいと思っているならば、漫然とタスクを与えるのではなく、子どもが快な入力を受けた時には、同時に快な入力を重ねて入れ、増強させて強い記憶になるように、逆にタスクと同時に不快な情報を入力して、タスク自体にnegativeなイメージがついてしまわないように、要所を押さえて関わることが効率的だということになる。

ヒトは物質で構成されたシステムで、そのアウトプットが思考や感情である考え方は、人間らしさや自分が自分であることを重視するという考え方の人には、無機質で寂しと感じられるかもしれない。

けれども。「快な入力を受けた時には、同時に快な入力を重ねて入れる」ということは、子どもが達成感を得た時に、抱きしめて一緒になって喜ぶということだったり、「タスクと同時に不快な情報を入力しない」ということは、タスク中に「そうじゃないでしょ!」「早くやりなさい!」などの否定的な発言を出来るだけ控えることだったりもして、結局のところ、目指すところは、同じ人間らしさそのものだったりもする。

そうやって、出来ている。…のかもしれない。