働く母のすすめ

You are stronger than you think.

慣れし故郷を放たれて、楽土を何処に見出すか

ここのところ。
仕事やら家族とのお出かけやらで、地方の田舎を訪れる機会が続いている。車窓を流れ行く景色を見ながら、私は、その町に暮らす人々の生活を思い浮かべる。
 
東京で働いていた頃。
渋谷の交差点の絶えることなく流れ行く人波を見て、そうか、東京ってそういうことかと妙に納得したことがあった。たくさんの人がいて、たくさんの物があって、たくさんの情報があって、たくさんの選択肢がある。東京で育つということは、それだけで私が生まれ育った地方の田舎町とはスタート地点が異なるんだと思った。
私が、祖父母の家の裏山を呑気に笹の枝を振り回しながら駆け回り、木のてっぺんに登って(あれは何の木だったんだろう?)畑でもぎ取った金柑を口に入れながら空を見上げていた頃。鉢巻を巻いて塾に通い、東大進学率のべらぼうに高い中高一貫の私立男子校に通っていたような人たちがいて。私は就職してからそういう人たちと同じ土俵で戦うことになったのだけれど、なるほど彼らと私とでは知識の質も量も全く異なっていた。そしてその理由は、生まれ育った町と環境の違いに依るところが大きいのではないかと思った。私は、そんな風にゴリゴリと勉強をする子どもたちがいる環境はテレビの中にある異世界の出来事だと思っていたし、遊ぶか勉強をするかという選択肢から遊ぶことを選んで遊んでいたわけではなくて、ただ遊んでいた。両親が悪いとは決して思わないけれど、本当の意味で勉強をすることの意味や大切さを両親から学べるような家庭環境でもなかった。
 
東京で働いていた頃。
同じく地方から出てきた先輩が、私のことを評して「大地に生えた大根みたい」と言ったことがあった。受け取り方によっては、褒め言葉にも悪口にも聞こえる言葉だけれど。泥まみれで垢抜けない田舎出身者の私が持っていた、上司や同僚たちの陰湿な対応(それは彼らが学んできた箱の中で戦う術の一部なのだけれど)にも負けない強さのことを褒めてくれたのだと、私は前向きに解釈している。けれど確かに。知識量や戦い方において優れているとは言い難いけれど、私には私らしさがあると思った。図々しさのような、ふてぶてしさのような、開き直りのような確固たる自分らしさは、田舎町が育ててくれた強さだと思う。
 
高校卒業後、実家を出てから幾つかの街を転々として暮らしてきた。
東京からは離れてしまったけれど、比較的都市部で生まれ育っている息子は、おそらくゴリゴリと勉強することも、遊び倒すこともできる。けれどおそらく。ゴリゴリと勉強をしていた彼らも、本当に意味で自ら勉強することを選んだのではなく、彼らの環境がそうさせたという方が適切なのではないかと思っている。つまりは、選択権は親にあって。
 
私は、このところずっと、息子にどんな世界を見せていくのがよいのだろうかと思案し続けている。