働く母のすすめ

You are stronger than you think.

キミ死にたまふことなかれ

近頃の息子。
例えば、テレビで子どもたちがお遊戯するのを見て「あの子、ちょっと上手くなかったね。息子ちゃんは、もっと上手く出来るよ。」とか。保育園で運動をして「息子ちゃん、走るの速かったんだよ。おともだちより、速く走れるんだよ。」などと言うようになった。

他人と比較して優劣をつける、という相対評価の存在は、知らずに生きていけるものではない。2-3歳の頃までは、自分が一番になりたい!という欲求や、自分が一番なことがすごい!というような自分に焦点を当てた考え方がメインだったのだけれど。少し周りのことが見えるようになり、一番になるには一番じゃない人が存在するということで、それゆえ一番ってすごい!という解釈をはじめたことは、息子が成長した証でもある。大人目線で見ると、ん?と思う言動もこうした成長のステップだったりもするので、頭ごなしに注意するのはちょっと違うのかもしれないと思いながら、息子の話に耳を傾けている。

成長するということは、新しい苦しみの種を手にするという側面ももっていて。
息子が年中になって数ヶ月が過ぎ、小学校の存在がチラチラと気になり始めた今日この頃。息子はこの先、こうした相対評価の嵐の中を走り抜けることになるんだなあと思い、気持ちがきゅっと引き締まる思いがしている。

なぜなら私自身が、学生時代、相対評価の中で生きるのが辛いと感じていたからだ。
保育園から始まった集団生活の中で、一度たりとも集団に馴染めていると実感したことはなかった。どちらの方向に向いていても、母集団の平均値から標準偏差で何SDといったハズレ値を取ると、集団から浮いてしまう。努力して馴染もうとしても知識も経験も発展途上な学生時代には、空回りしてしまうことも多い。その結果、学校という枠組は、自分のことを外れ値だと認識させるための母集団をを押し込んだ箱と化してしまっていた。高校を卒業して、相対評価の呪縛が薄れていくまでは、生きて行くことは死なないことど同義だったし、一瞬一瞬を死なずに生きている奇跡になんとか意味を見出して生きていた。

大人になり、社会に出た後は、そうした生きづらさは大分軽減したように思う。会社という集団に属する人間は、学校に比べて年齢もバックグラウンドも多様だし、仕事は勉強みたいにみんなで同じ課題を行うわけではないので、もちろん人事評価などはあるのだけれども、均一な尺度で並べて比べられる機会が激減する。(いつまでの相対評価時代の栄光にしがみついているめんどくさい大人がいたりはするけれど)もはや自分が外れ値かどうかはわからないので、そのままの自分で居られる。周りに合わせて取り繕う必要がない。

学生時代には気がつかなかったし、気がつけなかった。
相対評価なんてものは、母集団によっていくらでも変化し得るものであり、評価項目も評価する側の人間が評価したいものや評価しやすいものを選んだだけに過ぎない。また相対評価は、人の性質の中のある一面について特徴づけるための評価方法の一つであって、それが全てでもないし、人間としての優劣を示すものでもない。
ありきたりだけど。大切なのは、自分がどれだけ頑張ったのかと、その結果自分がどれだけよっしゃ!と思える成果を出せたかなんだと思う。もちろん、独りよがりな評価で自己満足していては成長が見込めないわけなので。自分で自分を客観的に評価する術を身につけるのがまた難しいのだけれど。

息子が、相対評価のことをもう少し理解するようになったら、そんなことを少しずつ伝えていきたいと思う。相対評価の中で、疲弊してしまわないように。


ある日学校に行ったら、昨日まで周りにいた人たちが、遠くからひそひそ話をしながらこちらを見ていたり、体育から帰ってきたら自分の机が何だかわけのわからない状況になっていて、これって一体何だろう?って思ったことがある。生きていたら、いいことがあるって言うけれど、そんなこと本当にあるかわからないし、そもそもいいことって何だよって思っていたけれど。
外れ値仲間の夫と出会ったことで、生まれてはじめて、生きていてよかったという感情を知った。そして、キミをこの世に生み出したことで、生まれてはじめて、死なないから生きているのではなく、この先の人生を積極的に前向きに生きていきたいと思えるようになった。家族で一緒に、この先の未来も生きて、キミの成長を見届けていきたいんだと思えるようになった。ありがとう。

命を大切に。