働く母のすすめ

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きゅうりと河童と感情コントロール

目の前で起きている現象(結果)と、そこから考えられる可能性(考察)と、それらを見聞きした時に生まれる感情というものを、全く別々のモノとして捉えることは、世界の理を正しく理解する上で重要なことだと思う。

そして、それらを別々に捉えられると、周りの雑音に心乱されることなく、比較的平穏な生活が送れるんじゃないかと思う。

理系の世界では。数量やレベルなど数値化されたデータが結果として得られる。「きゅうりを毎日三本食べた群では、血中の河童因子が平均30mg/dlであり、その値はきゅうりを全く食べなかった群に比べて、統計的に有意に高かった。」のように、結果は現実に起きたことそのものを、シンプルかつクリアに表している。それ以上でもそれ以下でもない。

こうした結果を受け。過去の蓄積された知見などと考え合わせた上で「きゅうりを毎日三本食べた群の血中河童因子濃度は、これまで報告されてきた河童の値と同程度であり、きゅうりの摂取がヒトの河童化に影響を与えている可能性がある。」とかなんとかまとめたのが考察になる。考察はあくまでも可能性を述べるものであり、結果のクオリティや再現性などにより、その可能性がどれくらい確からしいのかが変わってくる。科学分野の論文というのは、研究者の優劣を競い合ったり評価するための道具ではなく、可能性の確からしさを担保したり評価したりするために必要な知の集積体ではないかと思う。そして、そうした知の集積体である背景を知らない専門外の人が、きゅうりの摂取と河童の関係について正確に知るためには、大変な時間と労力を必要とするのではないかと思う。


数値データを並べて表現されても、専門家以外にはわかりにくいこともあるのに比べ。考察は、専門家以外にも理解がしやすくキャッチーである場合も多いので、例えばメディアの見出しに「きゅうりを食べると河童になりやすい⁈○×大学研究チームが報告」などと利用されたりする。メディアは大抵一般向けに可能な限り平易な表現力で簡潔に伝えようとするし、丁寧に「〜の可能性がある」という表現を使って書かれていたとしても、上に書いたように、その可能性がどの程度確からしいのかを理解するのは容易ではない。そして、こうした報道を見聞きして「河童になんてなりたくない!」または「河童、かっこええ!」という感情を持った人たちにより、きゅうりの不買行動や買い占めが起こるのではないかと想像している。

このように。現象(結果)と可能性(考察)と感情を分離できないと、情報に踊らされやすくなってしまうように思う。「きゅうりを食べる」の部分を、放射能とか母乳とか早期英才教育とか、そういうものに置き換えてみるとわかりやすいかもしれない。また、他人の顔色(現象)を、すぐに自分のせいにして(考察)落ち込む(感情)とか、子どもが泣きやまない(現象)のは、母親の育て方が悪い(考察)からと自分を責める(感情)というのも、それらを分離できない例なのかもしれない。

逆に言えば。自分の人生で、起こっている全ての現象は、いろんな可能性を含んでいるので、考察によって導き出された可能性は、必ずしも正しいものとは限らないし、短絡的に感情と繋げる必要はない。それぞれをきちんと分離して捉えた上で、時には、(他人に迷惑のかからない範囲で)自分の都合のよい考察をして、意図的に「快」な感情が生じるようにセルフコントロールするのも、生きる術として有用だったりもする。

と、自分に言い聞かせる今日この頃。