働く母のすすめ

You are stronger than you think.

息子の世界

息子が保育園で描く自由画は、なかなかに斬新。ゾウリムシかペイズリー柄かと思うようなうにょりぬるりとした物体が描かれているので、これは何かと尋ねると「母ちゃんだよ。」とモジモジと打ち明けられたりする。内心「えっ‼︎私一応、多細胞生物なんですけど?」と思いながらも「自由に描いてよい」と言われて母ちゃんを描いてくれたことに、じわじわと喜びが込み上げてきて、どぅへへへと笑いながら息子をぎゅうとハグして、彼の頭のニオイをくんかくんかする。
夜泣きした時、悔しくて母ちゃんに泣きついてきた時、ただただ甘えたい時。抱っこ‼︎とジェスチャーで言葉で訴える息子を抱きしめて、何度も何度も何度も嗅いだ息子のニオイには、私の心をほにゃりと弛緩させてしまう物質が含まれていると思いながら。

先日。保育園で昆虫の観察画を描く機会があったらしく、先生が連絡ノートで息子の絵を褒めてくださっていた。今度はどんな斬新な絵を描いたのだろう?と翌日、ワクワクしながら保育園で見てみたら、そこには頭部、胸部、腹部の三つのパーツを持ち、腹部から足が6本出ている虫が、紙いっぱいに描かれていた。よくみると触覚や目や顎もリアル。思わず「これ、ホンマの昆虫やないかーい!!」と全力で(でも心の中で)突っ込んだ。

息子の画力は自由画のゾウリムシが基準になってしまっていたので、昆虫の出来ばえにかなり驚いてしまったけれど、周りをよく見てみると、普段の自由画で”ゾウリムシ仲間”だったはずの男子たちの画用紙にも、軒並み息子と同じようなリアル昆虫が描かれていた。おそらく。「自由に絵を描く」という漠然とした課題に対して何かを描くというのは難しいのだけれど、見本があって形や構造をきちんと説明されれば描けるということなのではないかと思う。

つまりは。ルールや目的を与えれば自由画も、ゾウリムシ以外の絵が描ける可能性があるということなのだと思う。でもそこで、いつも私は立ち止まってしまう。果たして、息子はゾウリムシ以外の絵を描くことを望んでいるのか?ゾウリムシは今、彼が思う「自由」な絵としてのアウトプットであって、もしかしたら彼が見えている世界を彼なりに表現している方法かもしれなくて。りんごを赤いと表現するけれども、本当に彼の思っている赤と私の思っている赤は、同じ赤であるという保証はひとつもないし、りんごの形を同じように丸に近い形として捉えているという保証もない。

文字についても同じく。読み書きのルールを教えてしまうことは簡単で。けれども歪なカタチで、奇妙な書き順のあの文字が、今の彼が捉えて表現し得る世界そのものなのだと思うと、私が教えられることはそこには何もないのではないかと思う。芸術的な文学的な意味というよりはむしろ、4歳の彼の網膜で捉えられた光が、今まさに成長し続けている彼の脳内で情報処理され、手や身体の動きや言葉、感情として、今しかない方法で表現されていることに、生物としての美しさを感じるという意味において尊く。不可侵。彼への入力も彼からの出力も彼自身の物であって、私の物では決してない。どう足掻いても、しばらくは親の価値観の中で生きるしかない息子には、出来るだけ大人のルールや価値観に囚われることなく、彼自身の感じる世界で、彼自身が見つけたルールに基づいて生きて欲しいと願う。

まだ秩序もルールも曖昧な世界で、笑う息子は、今日も羨ましいほどに美しいと思う。