読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

働く母のすすめ

You are stronger than you think.

Adam's apple

【第0回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - Novel Cluster 's on the Star!に参加したいと思います。

ブログ歴はそれなりに長いですが、小説というカタチを意識してまとめるのは初めてかもしれません。いつかまとめられるとよいなと漠然とは思っていたりもしなくはないのですが。

そんなこんなで。
今回は、未来予想図というか、未来希望図をテーマに描いてみました。


*****

 

タイトル『Adam's apple


「ただいま。」

誰もいない家に帰っても、そう言うのが光太の習慣になっていた。玄関の上がり框に部活の練習着が入ったバックを放り投げ、手探りで壁のスイッチを探す。後から帰宅する両親のために玄関灯を付けておくのは光太の役割になっている。

明るさを取り戻した玄関に、真新しいベージュのパンプスが脱ぎ捨てられているのが光太の目に止まった。先週、母の誕生日に父がプレゼントしたパンプスだ。光太の小学校の入学式用にと購入したくすんだグレーのパンプスを「まだまだ大丈夫よ。」と履き続けていた母を半ば強引にデパートに連れてゆき、父が見繕ったパンプスはこれまでのそれよりも少し高いヒールが付いていた。
「なんだかちょっと歩きにくそうじゃない?どう?」
と玄関で何度も足踏みしながら、光太に尋ねていた母の気持ちは、その日からずっと、玄関の片隅に丁寧に脱ぎ揃えられているパンプスを見れば一目瞭然だった。そのパンプスが今日は上がり框に爪先を向け、右足側だけことりと内側に倒れていた。

「かあ、さん?」
小さく声を出そうとしたのだけれど、掠れてうまく出ず、後半は変に裏返ってしまった。喉の辺りの違和感にたまらず、光太は続けて2回、咳払いをした。
「...光太?」
玄関の左手にある寝室の5cmほど開いたドアから、母の声がした。そっとドアを開け顔だけでひょいと寝室を覗き込むと、薄暗い部屋で上半身を起こそうとする母と目が合った。
「ちょっと頭痛がひどくって。今日は残業せず帰ってきちゃった。今、お薬飲んだから30分くらい横になったら治ると思う。ごめんね、ちょっとだけ晩ご飯待ってくれる?」
よく見ると母は、仕事用のシャツとパンツのまま横たわっていた。「うん」と小さく掠れた返事をして、光太はそうっと寝室のドアを元に戻した。

冷蔵庫には、作り置きの総菜たちを入れた白いホーロー容器が整然と並べられており、晩ご飯は温めれば食べられる状態になっている。母は「ごめん」と言ったけれど、小さい頃から平日の夜はこうして母と二人で晩ご飯を食べてきた光太には、それらを食卓に並べることは造作もなかった。慣れた手つきで冷蔵庫からいくつかの総菜を取り出し、野菜のだし汁煮と味噌に手を伸ばしたところで、光太の視界に赤いりんごが飛び込んできた。
「『りんごが赤くなると医者が青くなる』って言ってね。りんごを食べると早く元気になれるのよ。」光太が風邪をひいた時には、いつも母がりんごを擂り下ろしてくれたことを思い出した。やさしい黄色みを帯びたふわふわの擂り下ろしりんごを食べると、母の言葉通り、次の日には不思議と元気になれるのだった。野菜のだし汁煮を火にかけると、光太は徐にりんごの皮を剥き始めた。母と一緒に何度か練習をしたことはあったけれど、一人で剥くのは初めてだった。一皮剥き、二皮剥き、時にはあっと手を滑らせそうになりながらもなんとか皮を剥き終わり、ふぅと一息つくと、さっきまで冷蔵庫に入っていた野菜のだし汁煮がグラグラと音を立て、鍋と蓋の隙間から勢いよく蒸気が吹き出していた。火を止めて味噌を溶き入れると、光太は続けてりんごを半分に切った。半分は自分用にカットして、もう半分は擂り下ろすことにした。


しゃりしゃりしゃりしゃり。くぐもったり弾けたりしながら、柔らかい音を立てりんごが擂り下ろされてゆく。その音の心地よさに、光太は気がつくと自分用に取っておいたりんごも全部擂り下ろしてしまっていた。不思議な充足感に包まれながら、おろし金の上に擂り残されたりんごのかけらをぽいと口に放り込んだところで、ガチャリとドアが開き「あぁ。お味噌汁のいいにおい。」と母がキッチンに入ってきた。光太は驚いてりんごを喉に詰まらせそうになり、慌ててゴホンと大きく咽せた。
「あれ。もしかして母さんに?」
シンクに落ちた分厚いりんごの皮をちらりと見た後、母はいたずらっぽく光太の顔を覗き込んだ。光太は、茶色く変色し始めたりんごの擂り下ろしが入ったガラスの器を、無言でぐいっと差し出した。母がいつも作ってくれたそれとは違い、なんだか水分が多くてびちゃびちゃとしてることにも納得がいかなかったのだけれど、そうした光太の不満をよそに、擂り下ろされたりんごを頬張った母は「なかなか。うん。イケてるんじゃない?少なくとも母さんの頭痛にはよく効くみたい。」と言ってふふふと笑った。

母が温めた食事を並べ、食卓についた光太はいつものように「いただきます」と言おうとしたのだけれど、やっぱりうまく声が出ない。キッチンでお茶を淹れていた母が「そうか。光太のそれ、変声期なのかもね。」とぽそりと言った声が、換気扇の音にかき消されそうになりながら、不安定に光太の耳に届いた。そして最近気になり始めていた喉の出っ張りを2、3度擦った後、その違和感を打ち消すように、光太は一気に味噌汁を喉の奥へと流し込んだ。