働く母のすすめ

You are stronger than you think.

相対的な価値判断の多い世の中で、絶対的な礎を築いていけたなら。

尊敬語とか謙譲語とか。正確に使うのは難しいけれど、その背景にある日本人的な心持ちがとても好きだと思う。

相手を自分より高めて敬う気持ち。相手より自分を低めることで相手を敬う気持ち。

きれいごとを並べたって、世の中は比較級が渦を巻いているのだけれど、ならばできるだけお互いに心地よい比較級を使っていきたいと思ったりする。

子育てをしていると親同士子ども同士、比較して悩んだりすることもあるかもしれない。卑屈になったり、張り合って疲弊したりするよりも、相手をすごいなあと思ったら、それは手放しで褒めたらよいと思う。人を褒めるって結構楽しいし、相手が喜んでくれる顔を見るとこちらも嬉しくなる。そのことで相手との関係性もよくなったりすることもあるだろうし、そういう関係性が増えていくと、自分では気づかなかった長所を見つけて褒めてくれる人も出てくるかもしれない。もちろん、表面的に褒め合うだけの関係性にならないようには、注意が必要なのだけれども。

間違っても避けたいのは、相手を低めることで自分が高い位置にいると思うこと。近頃流行りのマウンティングというのはそういうことなのかなと思うし、その昔、日本に存在した階級制度なんかもそういう心理を利用して「自分よりも不幸な人(下の身分の人)が存在する」ことで民衆の不満を減らしていたのだと思うけど、うっかりしていると、そういう気持ちはするりと自分の中に入ってくる。

例えばこの前、子育てで悩んでるお母さんを励ます意図の文脈の中で、逆に、子育てに自信満々なお母さんという対照的な存在を、あまり美しくない言葉を使って下げている文章を読んで、なんだか残念な気持ちになった。悩む悩まないでお母さんの価値が決まるわけではないし、誰かを自分より低い位置づけにすることで安心感を得るという発想って、やっぱり最終的に人として残念だと思う。長い文章の中の、ほんの些細な一文ではあったのだけれど、そういうところにぽろりと出る言い回しに意外とその人の価値観が出ていたりすることもあったりなかったりすると思ったりします。

小さい頃。学校の成績がどんなによくても、親に褒められたことはありませんでした。一度、父にそのことに対して不満をぶつけたら「学校の中での相対的な成績がどんなによくても、そのことに意味はない。」というようなことを言われました。つまりは、テストの順位や成績表の数値は、たまたま通っている学校の中での相対的な評価であって、集団の取り方によっては如何ようにも変化するものであり、続けて「自分より下を見て満足する人間になるな。常に上を見て努力する人間になれ」というようなことも言われました。当時の私には、父の単なる屁理屈にしか思えなかったし、しつこく主張すると、

 

父はそれほど人間的に出来た父ではないので(現在形)、この話は「シャツにチノパンなお父さんが椅子に座りながら、諭すような口調で紡ぎだした言葉」とかではなく「裸に短パン一丁な親父が、寝転がってテレビで野球観戦しながら、口が達者で小うるさい娘に苛立ちながら投げつけた言葉」 (ありがとう、税金。 - 働く母のすすめ

 

だったと思うのだけど、意外とそれは私のなかで生きる上でのキモとなる考え方になっていたりもする。

この先きっと。様々な他者からの評価にさらされ悩まされるであろう息子にも、相対的評価ではなく、自分が努力して来たという絶対値的な自信をベースに成長していってほしいと思っていたりする台風一過の夕べ。